本/思想の冒険 鶴見和子
『思想の冒険 - 社会変化の新しいパラダイム -』鶴見和子、井上三郎 1974
一言メモ:ちょっと古い、いまから50年前の本です。
鶴見和子は他の草稿の中でも繰り返し、西洋近代の思想を相対化する視座を提示しようと試みています。西洋方式の是非ではなく、西洋文明、西洋文化はヨーロッパの地、地中海沿岸と北大西洋にはさまれた土地、地理的条件や歴史的経緯の中から生まれた文化形質で、世界に多様に存在するものの1つだという見方を提示しています。そして、柳田国男、今西錦司、南方熊楠の業績を研究し、そこから、アジアの文化を多様性の文化としてとらえ、それが地域を基盤とした社会発展が必要だとして、鶴見自身のライフワークである内発的発展論につながっていきます。
西洋社会では19世紀初頭に起こったロマン主義から、1970年代にいたる様々な哲学者の思想において、徐々に文化の多様性の尊重、西洋文化の相対化が試みられてきました。つまり、変化し続けてきました。そしてその変化は今日も続いています。
日本は明治時代から西洋文化や生活様式を取り込んできました。ともすると、明治当初に輸入したものの考え方を「正しい考え方」として、いまだにそれを踏襲し、昨日今日にインターネットで得た言葉と明治当初の言葉が同じ意味であると捉えて、変化やズレに気づかない面があります。
1974年の鶴見和子の指摘は、その当初は斬新さがあったと思います。それから50年たった今日でも新鮮に感じるようにも思います。
抜粋(p150):
二 柳田の仕事と西洋理論との対照
(三)歴史における断絶と持続
西洋理論には、古典的発展段階説(マルクス、ウェーバー、コント、スペンサー等)の前提が根強く残っている。それらの説によれば、経済構造において、原始―古代―中世―近代が、それぞれ前段階の構造を否定して次の段階を特徴づける構造があらわれるだけではなく、それぞれの段階に対応した精神構造が、前段階の精神構造を否定してあらわれることが、理想的であると考えた。
追加メモ:哲学対話としては、「論破することを目的としていない」ということに関係します。「正しさ」は幅の広い言葉です。「話者はどの人とも、その人の正義を前提としている」という意見が、ときどき哲学対話で出ます。どちらも「正しさ」から始まっています。誠実さから発した言葉という意味で「正しさ」は大切ですが、「どっちの方が正しいのか」を考えるのではく、自分と違うまたは同じ意見の人の正しさを理解しようとして聞く姿勢を哲学対話の場では尊重します
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