哲学を考える座標点

2025年1月25日の哲学対話は、りぶら講座の一環だったこともあって、はじめて参加という方が数名しました。多かれ少なかれ「哲学」について語ることを期待して来られた様子で、「哲学対話」の雑然としとした雰囲気に戸惑われた様子でした。

何で、こんなに雑然としているのかということについて、哲学者内山節の著書『哲学の冒険』(2015)20頁から、参考になりそうな文章を抜粋しました。


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・・・知性主義、論理主義として成立した伝統的な西洋哲学の思考様式をどう超えていくのかが、現代哲学の課題でもあったのである。(中略) 客観的な論理として提示しうる「普遍」を重要視しなくなったとき・・・哲学とは何かということもまたどうでもよくなったのである。課題は自分の生命世界観の提示なのである。自分にはこの世界がどうみえているのかということだ。そのみえているものが正しいかどうかは知らない。確かにそうみえているということを、さまざまな方法を用いて語ることができれば、そこに現代哲学が存在しているのである。

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「哲学」の権威のよりどころが不確かになったところから、今日の口述による試み(エッセー)の時代になり、人それぞれが、それぞれの持ち場から自分(の体験)を通して語ることから、現代における「哲学の意味」の復活(再生)がはじまったのではなのかなぁと感じます。

私たちは哲学者ではなく、市民なのだから哲学を呻吟・議論する枠組み(パラダイム)に沿う必要なないように思います。一方で哲学者が考える哲学が権威のよりどころを失ったのであれば、市民の中に哲学の現在形とその価値があるようにも感じます。