ヒント/哲学対話の限界と可能性

2026年10月4日にリブラで行われた哲学対話では、「人と人の関係性ほか」と「時代の変化」というテーマが選出された。対話をする上で、両者に共通する問題意識をひとことで言うと「身体性の欠如」だと思う。

これについて少し考えたい。

先日、知人と食事をした。ご自宅で彼女の手料理を食べながらの会話で面白いことを発見した。それは「料理は言葉ではない」ということだ。自明のことではあるが、なるほどと思った。

「これ美味しいから、召し上がってみて。」と言われて、食べた私は

「美味しいね」と答えた。

「でしょ」と、言って彼女も満足げな顔になった。

彼女が言うには、「美味しい」という以外の表現をあれこれ考える必要は特にないのだそうだ。

世の中は、それに逆行する。(否、彼女の意見は世間とは逆方向にも聞こえる。)

新聞の広告欄に「言い換え事典」のようなタイトルの本がときどき掲載される。先日、図書館で『伝わる言語化』三宅香帆(2025)という本を借りてきた。要諦を私なりに簡略化すると「慣習化された言い回し(クリシェ)を避け、自分の体験を具体的に描写すること」となる。本にある練習問題の具体例の「ラーメン」の表現のヒントは「麺の歯ごたえ」や「スープがあつあつ」といった感覚的なことを、自分の言葉で表現してみよう、となっている。

私の知人は、着眼点がまったく違うのだ。

料理をしているときは、美味しい出来上がりにするためにあれこれと料理法について考える。しかし、その料理を通して伝えたい思いというものは頭にはない。それでも、その手料理を相手が食べたときに、食べた人が感じる何かメッセージのようなものが生まれる。そのメッセージは一律ではなく、食べる人によって違う。食べた人がその料理を食べることで何を感じたかを言語化する必要性はあまりなく、「美味しい」の一言で十分だということなのだ。

そのことを私は「料理には力がる」と言うように解釈した。お料理をそこに用意できれば、「料理の力」によって、料理(食事)ならではのコミュニケーションが実現する。それは会話を楽しむということとは別の次元のことだ。「美味しい」のバリエーションとは違うのだ。

身体性とは、何かを身体で受け止めることだ。料理を食べることは、まさに、身体で受け止める体験の典型である。

その体験が十全でなければ、言葉は意味を成さない。そもそも日本語の「ことば」という単語は「ものごとの端っこ」というのが原義だ。つまり、言葉をいくら重ねても、その本質から遠いところにある、と古代の日本人は感じていたのだ。

そうとはいえ、身体で受け止めた体感から発せられる言葉は、それがどのような内容であっても事実である。哲学対話が身近なテーマを起点にするのは、そこからこそ、世界を知る手がかりが見つかるという期待があるからだと、私は思う。