メモ9月6日/「主体とは」
2026年9月6日、2つ目のテーマ「主体とは」。
提案者の問題意識は、哲学者の内山節の本(『ローカリズム原論』)の中に出て来る「主体」についての論考が、自分が今までに考えたことのない視点だったことと、それがどの人にとっても大切な視点だと感じたことにあった。内山によると、西洋において「主体」は、中世までは「神の意志」を意味した。主体的に行動することは、即ち、神の意志の実現に貢献しようとすることを意味した。それが近代になり、人々が神を信じなくなり、何を「主体」とするかが、哲学・思想の分野で大きな課題となった。
私の理解では、ルネ・デカルトの「我思う。ゆえに我あり」のように、近代社会における人々の意識は、本人の自由な意志を主体として一旦は安定した。しかし、よくよく考えてみるとそこに登場する2つの「我」のうち、1つ目の「我」を支えているものが、「我」であることに気づき、その「我」とは何かと考え始めたとき、「主体」の在処がよく分からなくなり、現代の西洋において、「主体」とは何のことなのか、よく分からいというのが暫定的な結論となっている。
内山の文章から想像されるのは、「人は何のために生きるのか?」と考えた場合の「何のため」の「何」が「主体」に相当する。
前半の意見にあった「幸せ度」や「豊かに生きる」という着眼点に、思考を展開するための糸口があると考え、最初に「幸せ度」の発言者に発言を求めた。
「幸せ度」の発言者から。
キリスト教やイスラム教を信じている人は今でもいて、その教えを守っていると思う。自分はそうした信仰は持たないが、仏教の教えに共感するところがあり、それを大切に思っている。自分で考えて行動するにしても、自分勝手ではだめで、周りの人のことを考えることも大切だ。人との出会いは1つの縁であり、人に導かれて生きているという感じもある。
信仰にまで至らないのは、神や仏には実体がなく、本当にいるのかなぁと感じるからだ。
宗教とはなにか、信仰とは何か。
信心の対象としての宗教とは別に、宗教の教えの中にあるものの考え方を通して「考え方」を学ぶのは有意義だが、深入りし、依存度が高くなってしまうと危険かもしれない。
テレビで見た演劇の演技指導のシーンの中で、「戦時中の子どもたちというのは戦争の手伝いをすることをもっと楽しそうにやっていたはずだから、もっと明るい表情で演技してください」と言っていたのが印象的だった。実は、なんだかんだ言って、私たちが日常的に「もっと稼ぎたい」「もっと〇〇が欲しい」という感情を抱くのも、誰かに騙されているじゃないかと時々思う。そのような今の日本の社会で主体的に生きるには、静かな場所で瞑想したりして、頭をからっぽにして、客観的に世界を見ることが必要なんじゃないか。
キリスト教やイスラム教の人も日本人とそれほど違わないような気がする。宗教云々よりも、批判的能力を持つことが、主体的に生きるためには必要だ。何事に対しても常に問いを持とうという態度が大事だ。自分の子どもが小さかった頃、学校の宿題で「お父さんが子どもに伝えたいこと聞く」というのがあって、自分は「きれいな瞳の人間を信じるな」と伝えたことを今思い出した。
「主体」=「神」の時代から今日に至るまでの間に、「主体」の中身はときには「国家」になるなどして変化してきた。将来、AIやロボットが衣食住など人の基本的な欲求を満たしてくれるようになったら、「人生を楽しむ」ということが「主体」の中身になるように思う。
「大きな常識」に、私は選ばされているような気がする。例えば「親を大切にすることが、何かをする上で優先しなければいけない」というような「大きな常識」があるように思う。それが「大きな常識」だと理解した上で、自分が主体的に何かを選択できるようになりたい。
「生きることに前向きになれること」が「主体的」なんだろうね。
等々、「主体」を巡って、参加者の意見が相互に刺激となり、考えることを楽しむ充実した時間となった。
『ローカリズム原論』内山 節 / 2012
第8講 人間にとって主体とは何か
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