メモ/4月12日 愛を知るには
2026年4月12日哲学対話@りぶら、参加者17名、年齢は10代(高校生)~80代まで。選出されたテーマは『愛を知るには』と『私の中の日本(人)』だったが、選ばれなかったテーマ『人生に意味はあるか?』が気になった。
結論的に言えば、「人生に意味はある」だろうが、テーマを出した人には「人生の意味の喪失」、「人生の方向感覚の喪失」というような焦燥感があったのだろう。それに対して、「喪失」ではなく「紛失」と捉えてみたら良いかもしれないと思った。
『愛を知るには』で出た話を、私の印象に従ってまとめてしまえば次のような話だった。
愛とは、本来、形あるものではないので、型や形として捉えられるものではない。結果として、振り返ったときに人との関係の在り様を表現すれば、それが愛の形のように見えるかもしれない。現在進行形としては、「関係としての愛」があるだけで、それをどう感じるかは人によってそれぞれ違う。一方で、結婚など社会制度が作り出す「形式としての愛」の形がある。こちらは、若い世代から見ると年々、重々しく感じられるようになってきた。普段着のように、肌にフィットして、違和感のない愛、愛の形に縛られない自由さが実現できるといいな。
『私の中の日本(人)』は、「第二次大戦の戦勝国アメリカやフランスの人たちと、敗戦国の日本人では国家に対する態度が異なり、日本的なものに対する親近感や愛着が、そのまま国家につながって国家愛のようなものにはなりにくいのではないか」「自然環境と人間との関係が、西洋と日本では違うから、文化やものの感じ方が違う。良くも悪くも日本的な曖昧さが、日本らしさを特徴づけている。善悪をはっきりさせずに、水に流す文化だ。」というような話になった。
哲学対話の参加者の発言を振り返ってみると、「人生に意味が有りや、無しや」と問うこと自体が、あまり日本人の肌に合わないかもしれないと思えてきた。近代社会の基礎となった西洋社会は、思考を言語化し、権利や利害の境界をはっきりさせる文化だ。一方で日本の特徴が「あいまいさ」にあるのであれば、物事をはっきりと決めず、境界をはっきりさせず、「グレーゾーン」を広くとり、関係によって意味の境界は揺れる。
「人生の意味」がはっきとした境界をもったものならば、それは「喪失」するものかもしれない。そもそもが、曖昧とした「関係性」に「人生の意味」を委ねて生きているのであれば、社会の中で誰かと「関係を結び直す」ことで、再び「人生の意味」を見つけ出すことができるだろう。つまり、「人生の意味」はどこかに「紛れ込んで」いるだけで、探しようによっては見つけることができるような気がしてくる。
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自由についてのマルティン・ルターのことば
「いかなる報酬も利益も受けずに隣人に奉仕できる心、その心をもてることが人間にとっての自由である」(『キリスト者の自由』)
宗教者の眼差しを介して見れは、自由には「消費による自由」とは違った「自由」があることが見えてくる。その辺りにも「人生の意味」のヒントがありそうだ。
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